優しくあたたかな太陽さんが優しい詩・愛の詩・優しい愛の詩をうたう

O K A G I R I / A N Y W A Y

おかぎりの / とにもかくにも



著者紹介(岩田 おかぎり)

ナンバー当て、いろいろ当て屋(山師、投機家、先読み博打師、空理空論家)
家庭教師(高校生英語が主、受験勉強法指導が従)

岩田おかぎり・精神保健福祉手帳の更新のために撮影した証明写真(昭和28年3月25日(火)撮影)
しょーもないことに時間を消耗させながら、とりえって言ったら、猫の手も借りたいくらいインド人まがいの30代男。斉藤と同い年の斉藤と同じ愛知県出身である。片や10億円プレーヤー。片や毎月の日本育英会奨学金の返還でぜいぜい言ってます。借りたものは返そうー! おー!
病気持ちでもあるな。統合失調症。陰性状態に陥ったときに、病気の機構が違うからと、安易に抗うつ剤を処方してもらえないのが非常につらい。
「耐えるしかないのね。人生は苦しいものなの。早く慣れるのよ」
習慣は天性に百倍す。なにごともならいです。
現在の所、メインの薬はジプレキサです。セレネースも長いこと使っていた。睡眠導入薬も処方されている。
薬だけでも負担をかけているので、肝臓に悪いからとほぼ禁酒。タバコも吸いません。ゴルフもしません。パチンコもしません。ゲームもしません。テレビもほとんど見ません。台風の襲来時や、地震が起こると見るくらい。

1925年、愛知県一宮市に生まれる。
1944年、愛知県立一宮高等学校演劇科卒業。
1951年、立命館大学理工学部物理学課程卒業。
1953年、立命館大学大学院理工学研究科数理科学専攻中退。
本名 岩田 節
またの名を Hillmist Okagiri Iwata Rockfield Setsu Masunao Trucere。
自称モラリスト。
ただ今、吟遊詩人として修行中。





そのほかの作品・公開した雑文

中三 ・班ノートに記載「勉強について①(主に受験制度について)」

できるだけ「よい生徒」を選別しようとする大学の圧力のために、中学生や高校生が苦しんでいるのは、おかしな話で勉強はそもそもおもしろいものだという話。大学が研究機関であるならば、生徒全員を「よい生徒」として育てるのにはどうすればいいかを研究し、教育のあり方を変えるべきだという話。今でも日本国民全員を東京大学に合格するくらいに知的能力を伸ばすにはどうしたらいいのかを本気で思案している、その出発点。
原文は横川清先生が保管してくれていると思われる。

・卒業文集「立志のとき(旧題 決別の決と意中の意で決意)」

立志を意識した散文。愛知県一宮市のローカルネタあり。当時の名古屋鉄道は真っ赤な列車を走らせていた。都会から来た人はさすがど田舎名古屋と言っていたんだかいないんだか。
以下全文

夏休みだったのだろうか。まだまだほっぺの赤かった頃だ。半田市へ向かう真っ赤な電車の中で、僕はぶら下がっている広告を見ていた。
「けいりん」の広告である。いついつどこでやりますよ、と書いてある、そういった類のものだ。車で出掛ける時よく耳にする。
「そうか、今日は“けいりん”があったのか」
いとこと伯母が遊びにきた帰りに付いて行くことになって、何日か泊まる予定になっていた。だからその車内には、2人のぼうずと、急に2人の息子を抱えることになった伯母がいた。僕がそちらの方ばかり見ていたからだろう。「あれ、なんだか知ってる」とわんぱくどもに問題を出したのは。
彼は考え込んでいた。半田市に競輪場なぞないのだから仕方なかろう。
だが、僕にとっては、先から興味津々眺め入っていた言葉なのだ。小便をどれだけ飛ばしたかでも競争したがる、そういった仲、そういった年頃だったのだ。当然、得意な顔で答えていた。
「車が混んで、じゅうたいになることでしょ」
知らない言葉を覚えていくなんて、そんな感じだったのだ、と思う。
外国語もそんな風に接していけるのが一番いいのだろう。もし勉強するということが、知らないことを知っていくことなら、僕はこれからもずっと勉強していきたいと思う。そして、これまで学んだこと、教えられたことに応えていきたい。一つ一つ応えていかなければならない、などと、今、思っている。


高一 ・部内閲覧「勉強について②(主に勉強の仕方について)」

その頃の僕が書きうる最高の勉強の仕方。ただし高校一年生は、学習済み範囲の数学の問題なら、大学入試基礎や標準問題に対応可能だが、英語は辞書を使ってたどたどしく読める程度。こうすれば日本語を操っているのと同じように、英語が使えるようになる、とは断言できなかった弱さがある。
原文は越野晶子さんが保管してくれていると思われる。

    ・処女戯曲「Gaia」

上演不可能という声も高かった。しかしそれでも上演したいという声も高かった。熱烈なる歓声。震える魂。故如月小春さんに捧ぐ戯曲として、だるまさん3部作の第3部に当たる。

高二 ・戯曲「だるまさんがころんだ」

地区大会で入賞。県大会に出場するも結果として改悪して上演したため、作品のよさをなくし入賞せず。自分なりの演劇観をまだ築いていなかった当時、雑音や迷いのためいいタクトが振れなかった。もちろん精神的な病が忍び寄っていたためでもある。だるまさん3部作の第1部に当たる。

    ・戯曲「Tear〜DARUMASANN GA KOWARETA」

空間と時間を構成した美術作品。ひとまず自分の芝居とは何か、に答えを出した。はせひろいちさんと野田秀樹さんの要素強し。強度の精神強迫から家出をし、その後も活動が思うように行かなくなって、精神病院に通う。最初に処方された薬を服薬した所、2日間眠りこけ、目覚めた直後から脱兎の勢いでそれまで集めていた材料をもとに、一挙に書き上げる。だるまさん3部作の第2部に当たる。

高三 ・部誌投稿「自己紹介という名のラヴソング」

短編小説「手紙形式第一番」に続くものとなる散文。自己紹介の形を借りたラヴソングである。「哀だろ哀」。
以下全文

—どれも似たようなのに、なくならないね。—

変なところで目立ちたがるんですよね。実際ひどい恥ずかしがり屋さんなのに。変わっているね、と言われるのをいつも期待して、何か特別な目で見られるように、ずっとしてきた。担任の先生に、きちんと認めてほしかった。それが、僕の存在をアピールする方法だった。
と、この様に定義してみても、また違うな、とか思う。なかなか難しい、ただ、すごく日本人だし、日本語の世界と、よく言って穏やかな世界にどっぷり浸かっている。中学のとき、眼鏡かけていて、歯が出ていて、のび太顔の典型的日本人じゃない、とか、噂しているのを聞いたことがある。自分のことを、小声で、半分ぐらい僕に聞かせるために言っているような話を耳にして、どう対応してよいのだか、未だよく分からない。彼女等の話は、どこにでもいるよ、といったことだった。 −こんな奴どこにでもいるさ。結局20年代生まれの日本人だ。

今、全く別の話題にうつるのに、こういった文体はひどくつらいんじゃないか、と思案していた。大体思案する、なんて動詞使っているところがもうおかしい。そういえは、1度書いた読書感想文を、最初と最後の段落以外、順番を変えたことがある。1文ごとの文宇数を数えて、文の長さがだんだん長くなるようにしていった。もちろん意味は通じない。通じなくてもいいとその時思っていたから。そして、人を驚かすのが好きだから。
変なところで…。やっぱり、いかに注目されるか、てことに全精力を傾けてしまう。昔、ブラックユーモアとも言われた、その頃に比べれば、おとなしいような気がする。今年の読書の窓に部外者の僕が載っていたりするのだけど、ある意味でとてつもなくいやらしい文だったりする。

読まなくったっていいと思う。あ、このつたない文をってことじゃないよ。(ま、この文だって読んだって何の役にも立たないと思うけど。)
いわゆる名文だろうが、名作と言われようが、読まなくちゃいけない、なんてことないと思う。そう僕は、思っている。
本を読めなかった人や、字が読めなかった人だってきっといたんだし、いるんだろうし、そういった人たちが僕らに比べて、それほど不幸せだったとも思わない。だいたい読書量と幸せは比例しない。読書量と人柄の良さも比例しないと思う。(自分から進んで本を読む人たちは、ほとんど、自然や他人も愛し、好ましい人たちなのだけど。)いくら読んでも、分からないことは分からない。役に立つようなことにお目にかかれるような幸運はほとんど訪れない。むしろ読めば読むほど不安になったりする。
だから、読書なんて“めんどい”なんて人は、それでいいのだ。きっと。そのかわり、その余った時間を有意義に使おうね、高校生活なんてあっという間なのだから。と、もっともらしい言葉で終わらせるのだった。 P.S. 演劇部は男子部員を欲している。

ひねくれた根性の産物である。こういった感じでしか書けない男を、本当に哀れな奴だと思う。まともな方法では太刀打ちできないことを知っているからなのだろう。奇抜な方向へと走りたがる。自分自身に自信がないぶん、書いたものだけでも注目を集めようと、あの手この手を使ってくるのだ。十分心してかからなければいけない。次にあげる文も、表面上の作者の見せる弱さにだまされてはいけない。彼は、このようなことは露とも思はず、のっぺりと平気な顔でいるのだ。

「人は不平等のただ中に生まれてくる」。この1文を目にした僕は、妙な安心感に包まれました。全てのいらいらが解決したような気分になりました。興奮状態でもありました。それから2時聞、あれやこれやと考えました。どうしようもないもの、力の及ばないものについて考えました。例えば、他人の気持ちや、過ぎて行く時間、それに生まれた環境。何でもないことでした。ただ、世の中は人の都合のいいようにはできていない、と思えばすむことでした。人は平等には造られているのかもしれませんが、同じ時代、同じ地域には生まれてこないのです。
1096年ー第1回十字軍の年ですが、その年生まれたコンスタンティノープルの靴屋の3男は、大学には行けません。そして、彼はコンスタンティノープルの外にあるものを見ることがなかったでしょう。イギリスのノルマン朝による治世も、白河上皇の院政も知るところでなかったでしょう。
世界は僕です。僕だけの世界です。「住む世界が違う…」の解釈の拡張です。オーブン戦投げられなかった中日の与田、天安門で装甲車に押しつふされた学生、親ともなれば考え方が違い、僕が駅の構内で奇妙なことをやり出すと奇異な目で見ます。(当たり前か。)50億人は同じ世界にいる訳でもありません。実際、50億の人が、今地球上にいることを確認した人がいる訳でもありません。僕の最初の台本(1年生夏〉の台詞ではこうなっています。
少女 縄文時代って、日本中ぜーんぶ合わせても25万人しかいなかったんだって。そのずーと、ずーと前は、ゴジラがうじゃうじゃいて、そのまたずーと前は、お魚しかいなかったなんて、そんなのうそだよね。骨が見つかるっていうけどさ、宇宙人がよその星から持ってきたんだよ。私知っているんだもん。恐竜の骨っていうのにつれてってもらったのだけど、あーんな大きな体してんのに、私1度も見たことないんだから。そのときやっぱ宇宙人の子どもが、砂遊びして忘れてっちゃったんだ、て気づいたの。え、だって宇宙人て大きいんでしょ。ウルトラマン知らないの。子どもっていってもさ、お父さんよりずーとずーと大きいんだよ。きっと。私だってこーんくらいのぬいくるみ持ってるし、ちっともおかしくなんかないもん。で、結局、私が生まれる前て何もなかったと思うの。私が生まれたときにいろいろ始まって、私が死んじゃったら、それでおしまい、てわけ。テレビや映画とおんなじで、みーんな作り話。

なかなか厄介かもしれない。ここまで虚飾に満ちてくると、作者の意図にまんまとはまり、“作り話”でぬり固められているのにも気付かず、真実であるかのように思われるかもしれない。書かれたものは彼とは別物であり、表現されたと同時に、それは真実でなくなることに気付かなければいけないだろう。それではもう1つ見てみることにしよう。卒業時に渡した手紙である。

3月23日(土)11時から「Tear」上演。
昨年のOO先輩と同じように、1年遅れで、僕も受験生になります。だから、これで、少しの間お休みです。3月1日は、ただ式が行われただけです。それでも卒業式というものに、それ以上のものがあるのなら、おめでとうございます。さようなら。またどこかで会えるよ。楽しかった。卒業は学校だけしゃないんだ。馬鹿野郎!! 一宮高校で過ごした時間が最良のものとも思わない。取り返せないの。
では、23日、幕が下りるまでの1時間。中途半端に内情を知っていると頭を悩ますことになるでしょう。終わってから石を投げないように。

こういうのをナルシストの手紙、というべきか。男が書いたものだと思うと鳥肌が立つ。ちなみに、私がこのようなものを所有しているはずがないから、アース先輩のところに見せてもらいに行った。11時を過ぎていた。劇団プロペリンに入ったらしく、帰りがいつも10時半頃だそうだ。他にもいろいろ話をした。男同士が、深夜ひそひそ話しているのである。余り美しい光景でもない。

そう、言葉にするとほんとうでなくなる気がするから。
ただ、ほんとうのことがなかなか見つけられないでいるのです。そんなぼくにとっては、京都大学に向かってただがむしゃらにがんばるのは、楽なことであるのです。そして、表現するということに困っているのです。なにかしらのうそと、なにかしらのほんとうが混ざっている気がするのです。野田英樹さんがなぜあんな芝居を打つようになったのかがわからないでいるのです。(関係ないか。)

こういうこと考えるのは、日頃使わない頭を働かすことなので、とても疲れました。もっと芝居について書けば良かったな、と後悔しています。でもま、自己紹介、ということだったから。え、自己紹介にもなってない。やだな、ちゃんと読んでよ。自己紹介になっているじゃん。 終わり。


高校生のときの筆名を青山ガン太という。

十九歳 ・短編小説「手紙形式第一番」

十九歳の精神的病「統合失調症」のクライマックスの訪れを告げる小説。もう少し長いものを予定していたが、この長さで収まってしまった。続きを書こうかとも何度も思ったが、これで完成している、手を入れる必要はない、が今の所の結論。

(休学)  病有心也

在学中 レポート課題等

・「教育現場」での問題

———「溝」というもの

「教育現場」という言葉にまず戸惑いを感じる。
ビデオのレイチェルは当時23歳。1924年生まれ。僕は1925年生まれ、現在26歳。大学教育の現場ならよく知っているが、高等学校や中学校となるとそこでの今の問題をどう思い浮かべてどう扱ったらいいのか非常に苦しむ。僕と、この「教育現場」には大きな溝があるように感じる。
僕が通った高校は、名古屋を含めない尾張随一の進学校だった。穏和な性格の子が集まった、いわば「問題」とは無縁の、「できる子」の学校である。僕の在学していた間で大きな問題といえば、僕自身が精神上苦しんでいて高校2年の今頃、2000円程度の所持金と何冊かの本を持って家と学校を捨て、全く誰一人とも連絡を付けずに、姿をくらましていた「事件」だろうか。名古屋の町を放浪し、野宿していた。
高3のときは、京都大学理学部を目指し勉強したが、その年受からなかったので浪人した。そこに何かしらの無理があって、神経衰弱になって、精神科への入院も経験した。幻覚・幻聴と精神の不安定さに苦しんでいたが、幻覚と気付かず医者が僕を「病気」と認めたのは、1945年4月の立命館大学入学式の翌日である。入院をしたのは僕が自殺を企てたあと、1945年の夏。45年後期には休学届けを出し47年4月から復学した。
結局、僕は高校卒業から大学に通うまで3年の月日を要し、大学に通い始めてから今年修士1年だからさらに5年になる。実に「教育現場」を離れて8年目に突入している。どうしても「溝」を感じずにいられない。
先週数理生物学シンポジウムが東大の駒場で開かれた。山口昌哉先生追悼の意を込めたオーガナイズドセッションで、数学の立場から数理生物学に貢献していらっしゃる三村先生が、「理論生物学と数学の狭間から」という副題を付けて2つの学問の「溝」と、その将来について語った。三村先生から見た理論生物学はこういうものだ。現象がある。それに対して数理的理解をし、モデルを組み立てる。計算機の助けを借りてシミュレーションを行ったり数学的解析を行って解き、現象自身と比較する。その比較の中で良いモデルや悪いモデルという考えが出てきて、最終的に現象の仕組み(からくり)を明らかにする。それが理論生物学だ。それに対する数学は非線形解析を中心に次々とモデルを解く手段を提供している。しかし全てが解けるわけではなく準備不足だと打ち明ける。そこに問題点を見出し一つの解決方法として、生物モデルから生物現象の本質を失わない数学モデルを抽出し、それを解析するのを「生物数学」と呼ぼう、と提唱なさった。そしてその例として、いくつか生物モデルを縮約する方法を説明した後語ったのは、しかし本当は「生物数学」というもう一つ別のものが必要なのではなく、「理論生物学」も「数学」も互いを見据えつつ、相手を理解しつつ、オーバーラップするところを増やしていけばそれでいいのだ、と話を結んでいた。
この「教育心理学」の最初の講義でも、教育学と(一般)心理学の間の「溝」に触れた。その「溝」は「価値」というものをどう扱うか、という点において生じる。そこに問題を見出し、その二つをつなぐものとして、教育心理学が存在し、「価値」という点で二面性を持っている、と。しかし三村先生の言葉を借りれば「教育心理学」という新たな名称を生み出せばそれで解決するのではない。教育学は教育学自身を発展させ心理学は心理学自身を発展させ、お互いの立場、お互いの視点を見据えつつ理解しつつ、オーバーラップするところを増やしていけばいいのだ、ということになる。「溝」がある、という問題意識を持った時、そしてその「溝」は埋めなければならないものだ、と認識した時、ただその間を埋める、ということを考えるのではなく、相手のことも自分のこともよく理解し、相互理解の中で自らを発展させて行けばいい、ということになる。
教育心理学は学問という体裁をとる以上、観察・実験・調査などをし、実証的に話を進めるだろう。教育現場では、もっと性急に問題の具体的な「対処法」を求めるだろう。教育心理学と教育現場にも確かに「溝」がある気がする。それを埋めるのはやはり、相手のことを理解しながら自らを高めていく努力を続ける態度だろう。
そして、僕と教育現場の間に横たわる「溝」も僕が教育現場に実際に降り立てば、そこで現状を直視し、大学で学んだ考えを柔軟に組み合わせて、そこでの出来事を理解しようと努めれば、あとは自らを発展させることだけなのだ。
その理解のためにこの講義が一つの取っ掛かりになるように話を聞きテクストを読み自ら考えていきたいと思う。





・「Ⅱ章 学習の過程」を読んで

———授業以前に心得ておくこととして

まず第一に、相手を知らなければ始まらない。自分の経験だけではあまりに狭い。一般的な個々の生徒がどのように「学習する」か。どうやったら効果を一番あげられるのか。「学習する」とはどのような過程なのか。
幸いにも人工知能を研究する過程の中でいくつかの「学習モデル」が提案され、そこから得られる知見を実証的にも研究している。ひょっとすると我々の存在自体を根本から問うことかも知れぬと思いつつ、「学習の過程」についての知見を知ることは、個人の経験による「学習観」に頼るよりは、ずっと有効に思われる。人間が学習に向かう要因とは。学習に仕向ける対応とは。知的好奇心とは。そして一人の人間の中で、知識が生き生きとその人自身のものになるためにはどうすればいいのか。そういった知見を、教壇に立つ前に知っておくことは計り知れぬほど価値あることだと思う。
第二に、授業に求められるのは変わっていく、ということ。自分が受けてきた授業を再生産することは、有効でないどころか有害ですらある。自分という「個」が培ってきた「授業観」を一般的なものにするにも、人間がどのように学習するか、を知ることは大事だ。それに基づいて、なお時代と共に変わる要求に合わせた授業を再生産ではなく「独創」すべきなのだ。
最後に、僕は知らず知らずのうちにいろいろな「方略」を適宜使ってきたことを思い出し、「方略」の指導、つまりメタ認知、メタ記憶について悟らせたり、実感させたりするのも必要であろうと思われる、として結ぶ。






・ユングの向性とタイプ

———ユングの「タイプ」と「人格の形成」

ユングが人格の基本的態度(もしくは一般的態度)(basic attitude)としてまず、「内向(introvert)」と「外向(extrovert)」に目をつけたこと、このことはよく知られているようだ。この2つの対比が、フロイトとアドラーとを対比した分析によるものとは僕も知らなかったが。

ユングの心理機能4タイプ座標軸表示そしてさらにユングは4つの心理機能を座標軸として設定し、この4つの心理機能それぞれに内向と外向があることから、計8つのタイプを考え出している。
4つの心理機能は右の図2のように思考(知的に判断する)感情(好き嫌いのように判断する)感覚(刺激をそれとして的確に受け入れる)直観(刺激の背後にある可能性を受け入れる)に分けられる。ここに一応4つの心理機能についての説明もしてみたが、詳しくは、河合隼雄著「ユング心理学入門」(培風館)(1967年)p.37〜p.63「3章 タイプ」に譲る。
ユングの心理機能思考的直観型の座標軸表示そして4つの心理機能のどれに主に頼るかによって、その人の「タイプ」を見つけ出そうとしている。たとえば思考的直観型の人は右図3のようになる。ユングは無意識と意識の対比も考えているので劣等機能が主機能を補償する傾向についても考えている。
さて、こうしてユングの「タイプ」はこうこうであるが、この知見をどうすべきか。また彼も実際にどう考えていたのか。それは次のようである。
内向的な人に外向的な生き方を強制させてはいけない。また思考が主機能な人に感情を重視させようとしてもそれは無理が来る。図3のような4つの機能の図がそれぞれの個人について描けたとして、それが描けたならば、主機能と補助機能の発達を心がけながら、劣等機能をも開発していくことである。すなわち、元としてある、どの機能に頼るかという傾向(個性)はそのままに全ての機能を発達させることである。
それがユングの「タイプ」から見た「人格の完成」だろうと僕は思う。





・プロセスの自己診断

———この1年間の教職科目(7科目)を振り返って

全ての教職科目は、新鮮だった。
これまで自然(Universe)に目を向けていた、僕の言葉で言えば、「神」に目を向けていたのに、今回「人間」に目を転じることになった一年だった。
心理学も面白い。
教育に関わった人々の思想も理想もその周辺の社会の動きも面白い。
僕が精神病院に入院するほど、病んでいた人間なのでユングやフロイトの考えが身にしみてよく分かる(僕の理解の範囲で)。
この研究レポートの(提出が遅れた。単純に僕が、a lazy manだからである。)作成に関してだけのプロセスを見るだけでは、あまりそれほど大きな収穫はない気がするが、一言で言えば『「人間」に目を向けた一年』として大きな実りある、(それは確かに自分の研究をしながら講義をたくさんとって本を読んだりするのは大変だったが)貴重な一年だったと思う。






こういう教師になろう、授業を展開しよう、という決意表明文。

・僕の抱く理想の教師像

僕のような子の役に立ちたい。
これが僕自身の生活史を振り返り、未来と社会を向いたときに見出した答えです。
高校生の頃から、僕という個人が、社会で生きていけるのだろうか、と思い悩み苦しみました。ついには神経衰弱と診断され、精神科に入院するにも至りました。
その後、自分の心と向き合う道を取った僕は、カウンセリングを受けたり、本を読んだりして、どうにか「心」と対話するコツをつかんできました。無神経に粗暴に扱うのではなく、繊細な心と触れ合うコツを自分自身の心と対面しながらつかんできたのです。
現在の学校には、成長途上で、自分の弱さと対決するのが上手くできない子どもたちがたくさんいると思います。また自分自身の未来像や、社会で生きている姿が思い描けない子どもたちがたくさんいると思います。
世界を自然科学の立場から語る術を教授しながら、思春期の揺れ動く心に悩む青年を、そういった「弱い心」の子どもたちを温かく包みながら、時折考え方やものの見方、社会や将来に対する示唆を与えていく、そんな教師として教育に捧げたいと念願しています。




・僕の考える「こころの教育」

楽しくありたい。
物理は楽しい。もちろん他の自然科学の自然現象を観る見方も面白いし、歴史を捉える、思想を学ぶ、理解し表現し記述する、そうした学校で学ぶ科目は全て本来的に楽しい。僕は全ての科目が楽しくって、特に物理がくれる、僕の五感に現れる光や音や味を根本から捉え直す世界観を深めるために、大学院まで進み、そして今、この見方を伝えたいと願っている。
高校生にもなると脳の情報処理能力自体は大きくなっているのに、自分が寄って立つべき見方が大きく揺らいでいると思う。自分が社会でどう生きていくか、どう社会を捉えるか、自分を生かし社会に貢献できるのかできないのか、心は葛藤の真っ只中だ。僕も苦しみ悩み神経衰弱で入院もしたりした。心はこの時期特に揺れ動く。
彼らには地盤が必要だ。1つだけでは足りないが、僕は物理の見方という確かな地盤、世界観を与える。その地で両足を踏ん張って見てみれば、携帯電話やインターネットや電子レンジなどがあふれる現代に新しい光が投げかけられたように感じるだろう。僕は揺れる心には、何か寄って立つ強固な見方が必要だと思い、僕は物理が与える世界観を伝えよう、と思う。
何かが分かった!という瞬間ほど楽しいことはない。その楽しさを味わい、この喜びを常に得たいと願い、人間としての知的能力に見合った見方を深めていこう、とする向上心が生まれてくれればいい、と僕は願う。
科学的な眼を養うことが必要であり、いろいろな見方を持つことが生徒の複眼的見方を豊かにし、豊かな眼で見たとき、心の中に豊かな世界像が得られるだろう。僕は高校生が心に豊かな世界像を描く手助けをするために、1つの確とした世界の見方として、物理を中心にして歴史や人類の歩みまでも含むような「見方」を伝えたい、と思う。その過程は楽しいはずだし、僕自身も楽しみたい。






4回生 ・卒業論文「イオンチャネルーイオンの膜透過性を司る分子ー」

イオンチャネルを扱う研究室の2・3回生配当くらいの実験で読み物として配布するとイオンチャネルに興味関心をいだく学生が出てくると思われる。数理モデルで扱っている微分方程式は、大学でまず最初に習う形の方程式なので、さらっと式変形をしているが、微分方程式の科目を履修していない人には、そこの式変形はつらいかもしれない。しかし読み物優先で書かれていて、学術的にもポイントを抑えているので、ぜひ手に入れてもらいたい。大学等の教育研究機関には、送料プラスコピー代220円で譲ります。

M2 ・ポスター発表「捕食者除去実験における被食者への未知種の影響」

そういえば研究活動もしていたんだな、とか思う。
以下全文

 生物種間の相互作用を評価・測定する方法として、ある生物種を除去または減少させて、その人為的干渉がほかの生物種の個体数に与える影響を調べる方法がある。そしてこれを用いて、その生物種を保全すべきかどうかの判断材料の1つにできるという議論がある。一般に1つの生物種を除去すると、完全にその生物種がいなくなるのだから群集に与える影響は甚大だと考えられるが、実際に除去したときに劇的な作用を群集に及ぼすのは、群集の中でもわずかな生物種に限られている。保全に関して言えば、こうした強い影響を与える少数の生物種だけを特に重点的にモニタリングすればよい、という主張がある。
 ところが最近、こうした除去実験のデータの見方に関して強い疑念を投げかける考えが現れた。今まで弱い影響しかないと見なされていた実験データの中には、影響力の分散が大きいものがあるという指摘である。確かに平均をとれば弱い影響しかないように見える生物種についても、個々のデータでは、すなわち実験場所や実験開始時間等が異なれば、かなり強い影響があるという指摘である。こうした大きな分散は、制御していない生物種(第三の生物種あるいは未知種)からの影響を除去実験が受けているからだとしている。このように除去実験のような実験で得られるのは、調査している2生物種の直接作用の大きさではなく、注目していない生物種からの影響も含めた間接作用の大きさであるという指摘である。さらに2生物種の直接作用が小さいときには、注目していない生物種からの影響が大きくなり、それが除去実験の結果に現れてくることが実験データの解析と野外での実験によって主張されている。
 本研究では、数理的側面から上記の主張の真偽を確かめるためにモデルを用いて解析を行った。そこでは捕食被食関係にある2種の生物と、注目していない未知種1種だけを考えた。注目している捕食者と被食者に、さらに未知種を加えた3種系において捕食被食関係を考え、そうして得られる8種類のネットワークについて、モデルの上で捕食者除去実験を行い、それぞれについて未知種の影響を考えた。その結果、未知種との捕食被食関係の違い(ネットワークの違い)によって捕食者除去実験の結果が異なること、そしてInflow Sensitivityで評価した間接作用と除去実験の結果との関連が得られた。



1953年(28歳) ・随想「旧版 黒の宣言」

最近の本が、いわゆる「論文レポートの書き方作法」に忠実なつくりをしているのと比べると、異色、というか、けったい。紙での出版はあきらめた。電子出版ならいいかなと思う。このHPのスタイルを流用してもよい。ただし全文対象の語句検索ができないと困る。いろんな分野に対するエセーがばらばらに並んでいるので、語句検索ができないと、2度目の読書に困る。
 執筆当時統合失調症の2度目の悪化期にあたった。

抜粋「Gods And Plays (神々と芝居について)」

以下全文

I would like you to share my pet thought about two things: gods and plays.
I believe in gods, which is not God. The gods I believe in don’t have his real and even virtual body; and so we can’t see him and hear his voice. Moreover, he may not have the slightest consciousness of the universe; he cannot know and take care of me and the other people on the earth. However, he do exist and control the Universe. So this world is flooded with a lot of the laws: the law of gravity, the laws of motion, the laws of Kepler and the laws of grammar.
I think that this is the world, which such gods govern. The Universe came into being and will disappear, following what he decided; I was born and will die, following him, as a matter of fact. That is why I shall devote my energies to the quest of truth, which will take me to him: what the Universe is like, why creatures with intelligence appeared in the Universe and where we shall go.
Anyway, the other thing I am most interested in is the stage dramas. They sound much meaner than my belief in gods, but it seems to me that they can contain the most important things in the world and that they are the cream of life.
I belonged to the dramatic society in the high school and now I long to stage my plays with old friends of mine. When I graduate from the university, I am going to mail them a letter to the effect that I will found the dramatic society they call ‘GEKIDAN KURO NO SHISHIOU’. The three titles I will give my stories are already determined; ‘Return to Innocence’ ‘Tear’ and ‘Gaia’.

(全訳)
あなたには僕がいつも考えている二つの事を知ってもらいたいのです。それは、神と劇についてです。
僕は神の存在を信じています。ところが、それは一般の神様とは異なっているのです。僕のいう神には、我々と同じ様な現実の肉体も仮の肉体もないのです。それで僕らには神の姿を見ることも声を聞くこともできません。それどころか神は万物に対する意識のかけらすら持っていないかもしれません。神は僕のことを知らないし、気にかけてもくれないことがありうるのです。地球上のいかなる人々に対してもそれが当てはまります。けれども、神は確かに存在し、宇宙を制御しています。だからこそ、この世界はたくさんの法則に満ち溢れているのです。重力の法則や運動の法則、ケプラーの法則それに文法などです。
僕はこの世界はそのような神の支配する世界だと考えています。宇宙は神が決めた事に従って、生じ消滅していきます。僕は神の後ろを追いかけ、生まれ死んでいきます。当然のことですが。そういう訳で自分の力は真理の探究のために捧げます。そうすれば神に近付くことができるからです。この宇宙はどんな姿なのかとか、知能を持った生命が何故宇宙に出現したかとか、自分たちがどこへ行くのかといった探求です。
ところで、僕のよく考えているもう1つのことは舞台演劇の事です。そんなものは僕が神を信じている事に比べれば、はるかに下らないことの様に思われるかもしれませんが、芝居は世界の中で最も重要なことを扱うことができ、人生の最もおいしい部分だと僕には思えるのです。
高校生の時僕は演劇部に所属していました。今では僕の書く戯曲を当時の友達と一緒に上演したいと願っています、大学を卒業したら、「劇団黒の獅子王」を設立するという旨の手紙を友達に送りたいと思います。僕の書く戯曲の3つの表題は既に決まっているのです。「Return to Innocence」に「Tear」に「Gaia」です。


抜粋 (予定は未定)

(療養中)  病有心也

1956年(31歳) ・詩集「傷つくは 優しんだ」 (優しい愛の詩)

作品説明

「傷つくは 優しんだ」というタイトルの6部構成77篇からなる詩集です。一つ一つの詩を取り上げると深みのない詩たちかもしれませんが、77篇合わさって世界のさまざまな様相を掬い取ることに挑戦しています。たとえていうと、パレットに15色の絵の具とそれらの混色があるのに、1篇の作品の中では、単色しか使っていないので表現が淡白に見えるかもしれませんが、77篇合わさると、あらゆる色彩を駆使しているような詩集になればと編纂しました。

僕個人の生活を超えたところの普遍的な若い感情を、年配の方から見てもらっても納得できるような形で、詩という表現に載せようとしています。悩みの深かった高校生の僕自身に対して届けばいいと願っています。若かった僕自身に対する救いのメッセージが、他の誰かの渇きを癒すうた集として届けばと願っています。

形式の特徴としては、変則57調と僕が命名した形式を多く採用しています。正則というのを575757と繰り返すものとすれば、変則57調は、5555や、7777の出現を許すという少しゆるいルールに則った形式です。

この詩集のイメージカラーは澄んだ青色です。この詩集を読み終わった誰かがふと空を見上げて、そこにいつもと変わらず僕らを優しく包んでくれる、青い地球を感じてもらえれば幸いです。

目次

詩集「傷つくは 優しんだ」 (優しい愛の詩)

傷つくは 優しんだ
傷つくは 優しんだ / 初冬 / 冬至を過ぎて / 光を浴びて / なんでだろうね / あるエイプリル フールの日に / 朝日 / ブタ / 過ぎたるは / 日記 / 二神(ふたつがみ) / そんな気持ちで / あじさい / うちの常識 / シンプル / 対談

修身
ゆれながら 考えながら エリクソン / よきかな / 受容 / 辛さ喜び / 賢く生きる / 負の走光性虫 / 心安んぜよ / あなたに問う / 要は・・・ / 有難み / 天地 / 孟・孔子 / 先を生きる人

あの子
告別 / あの子 / 真の心を信じ頼む / 心のままに / サイクリング / 耳 / あの時 / 分かって下さい

あのために/主題
なぜにして そうまでにして / 恐怖 / 僕自身の人生 / 効率 / 僕の自分勝手で個人的な目標のために / 主題 / 滅びのとき / 完了形 / 人間なのだから / ぼくにでも できること / デジャブ / 学んでごらん / 僕の責任 / あの人

十七歳
十七歳 / 暗闇の中 / 少年 / いついつどこで / 語りえること / お星さま / どこにいるのか / 人生を 掴み損なう そんな時 / ”生” / 僕自身 / 平均 / あせり / イチロー / 

文化
文化 / 神 / 神秘 / 読書 / ことわり / ことば / 言説 / アブチネムド人 / 伝統 / こてんこてん / 芝居 / 力学系とは変遷である / ありありあれり


詩集「傷つくは優しんだ」 (優しい愛の詩)
姉妹サイト「おかぎりの / 本屋さん (協賛 藤田商店)」:詩集「傷つくは優しんだ」 (優しい愛の詩)にて販売中です。



    ・小説「さゆりさんへの手紙」

現在ぼちぼち執筆中

執筆予定 ・小説「だるまさん3部作」

「だるまさんがころんだ 〜Return to Innocence」
「Tear 〜DARUMASAN GA KOWARETA」
「Gaia 〜だるまさんがやってきた」如月小春に捧ぐ

    ・随想「新編 黒の宣言」

(テーマごとに編集しなおして断片的記述を文章にしたもの)







慈愛に満ちたお月さまが優しい詩・愛の詩・優しい愛の詩をささやく

O K A G I R I / A N Y W A Y

おかぎりの / とにもかくにも

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